西武・松坂大輔投手(26)との契約交渉が難航しているレッドソックス。クレメンスでしょうね?


松坂さんは嫌いじゃないですが、僕ならクレメンスをとりますよ。


ウィリアム・ロジャー・クレメンス(William Roger Clemens, 1962年8月4日 - )はアメリカメジャーリーグ、ヒューストン・アストロズの投手。150km/hを越える球速とその力強い弾道、育った場所がNASAの連絡基地のあるヒューストン近郊という事からロケットと呼ばれる。1980年代からメジャーを代表する投手の一人。歴代最多7度のサイ・ヤング賞を受賞し、多くの野球解説者から大リーグ史上5本の指に入る投手といわれる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


松坂大輔

生まれた時の体重は4310g。小学校でははじめ剣道を習っていた。東京都江戸川区のリトルリーグ出身。高校時代は、「サボりの松」と言われるほどの練習嫌いであったが、2年次の夏の甲子園県予選での対横浜商業高校戦で、自身の暴投によるサヨナラ負け以来奮起し、MAX152km/hの豪速球・切れ味鋭いスライダー、カーブ、チェンジアップを武器に超高校級の投手として「平成の怪物」と称される。最後の夏となった1998年の全国高等学校野球選手権大会では、準々決勝で上重聡を擁するPL学園を相手に延長17回という長丁場の試合に250球を投げ完投勝利。決勝戦では、59年ぶり史上2人目となる決勝戦でのノーヒットノーランという快挙。圧倒的な活躍で春・夏連覇を達成した。

1998年度ドラフト会議では、指名順位1位で西武、横浜、日本ハムの3球団が競合の末西武が交渉権を獲得(ハズレ1位として横浜は古木克明、日本ハムは實松一成を指名。)。当初ドラフト直後の会見では、「自分の意中の球団は横浜ベイスターズでした」と語っていたが、西武へ入団した。

初先発となった1999年4月7日の対日本ハム戦では155km/hの直球を披露、8回2失点の好投で初勝利を記録し、まさに鮮烈なデビューを飾った。その試合での片岡篤史の豪快な空振りはプロでも変わらぬ“怪物”ぶりを示す映像資料として現在でもよく放送される。登板3試合目の対ロッテ戦ではエース黒木知宏と投げ合い、接戦となるが0-2で敗戦。試合後に「リベンジします」と宣言した松坂は、6日後に再び黒木と投げ合い、1-0で初の完封勝利を挙げ、見事にリベンジを果たした。このことから松坂の「リベンジ」が、上原浩治(巨人)の「雑草魂」とともに同年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれた。その後対オリックス戦では、すでにプロ野球界において孤高の存在であったイチローとの初対決が話題となったが、イチローを3打数3三振(1四球)とほぼ完璧に抑えた。試合後のヒーローインタビューでは、「自信から確信に変わった」という名言を残している。結局1年目から16勝を挙げ最多勝に輝くなどその実力を見せ付けた。

入団当初の弱点であった荒れ玉を改善し、ツーシーム、カットボール、フォークなどもマスター。“怪物”からさらにレベルの高い投手へと変貌してきた。現在に至るまで数多くのタイトルを獲得し、故障のため14試合の登板に終わった2002年を除くと毎年パ・リーグの防御率4位以内に入るという驚異的な安定感を誇る日本を代表する先発投手である。現代のプロ野球では数少ない先発完投型のピッチャーであるためかサヨナラ打を打たれて敗戦投手になることもしばしばある。シドニー及びアテネのオリンピック日本代表に参加。2006年3月に開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)にも日本代表として出場、参加投手中最多となる3勝を挙げ世界一に大きく貢献。大会の最優秀選手(MVP)に選ばれた。以上のようなことからしばしば「日本のエース」と呼ばれる。

ちなみに、高校時代には甲子園球場では15連勝、被本塁打0という記録を持っていたが、2005年5月18日の交流戦(対阪神)でプロ野球選手として初登板した際、阪神の桧山進次郎に先制2ランを浴び、試合も3-2で敗北。甲子園での被本塁打0という記録は途絶え、連勝記録も15で止まった。

バッティングも上手い事で有名である。高校時代は4番を務めていた時期もあり、高校通算14本塁打を記録。打撃に悩む野手に打撃のアドバイスを送ることもあるらしい。パ・リーグに所属する投手は打撃練習をほとんどしないが、松坂はトレーニングに取り入れているという。高校時代の恩師である横浜高校の渡辺監督は、松坂が打者として活躍していたら巨人の高橋由伸を右にしたようなバッターになると語った。2000年8月7日のオリックス戦では、9回2死満塁の場面で代打として登場。栗山聡からファールで粘った後の7球目をセンター前ヒットし、2打点を挙げた。DH制施行以降では投手のヒットは4人目である。また、2002年の日本シリーズでは7番を打った。2006年6月9日のセ・パ交流戦・対阪神戦(甲子園球場)ではダーウィン・クビアンの高めのボール球を叩いて本塁打。DH制施行後、パ・リーグの投手としては4人目の記録となった。

2006年6月16日のセ・パ交流戦・対横浜戦で、江川卓(所要193試合)を抜きドラフト制度導入後最速(191試合)の100勝を達成する。(その後2006年8月25日に上原浩治(巨人)が同じ191試合での100勝を対阪神戦にて達成し、松坂の記録は最速タイとなった。)

2006年10月7日にパリーグ・プレーオフ第1ステージ初戦に先発。厳しい内角攻めで4死球を与えたが、ソフトバンクのエース斉藤和巳との熾烈な投げ合いを制し1-0で完封勝利を挙げる。チームはその後2連敗し第1ステージで敗退したため、この試合が松坂の渡米前の最後の公式戦となった。

メジャーリーグ志向が強いことで知られ、何度か球団にポスティングシステムによる大リーグ挑戦を打診してきた。ただ、球団の事情などにより何度か先送りされてきたが、西武球団は2006年シーズン終了後のポスティングを認めた。11月1日午後4時(日本時間)、ポスティングシステムによる大リーグ移籍を正式に表明。2006年11月15日午前10時(日本時間)、ボストン・レッドソックスが5,111万1,111ドル11セント(日本円で約60億1,000万円)で独占交渉権を獲得した。

2006年11月23日にインボイスSEIBUドームで行われた「西武ライオンズファン感謝の集い」で紅白戦に登板、内角高めのボールで相手打者の和田一浩がマウンドに突進、あわや乱闘かと思いきや、マウンド上でチームメイト全員から胴上げされた。チームメイトが松坂のために用意した粋な計らいであった。 そして、イベントの最後に「入団から8年間という短い時間でしたが、温かい応援が自分にとっては一番のパワーになりました。まだ、正式に決まったわけではないですけど、できれば来年からアメリカで頑張りたい。日本代表として、西武ライオンズ代表として頑張ります。…ありがとうございました」と挨拶、西武ファン、そして西武のユニフォームに別れを告げた。

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